
僕は、多分、疲れていた。
連日、深夜まで残業し、その上、家でも持ち帰った資料に目を通した。
朝になると、早朝の満員電車に揺られて会社に向かった。
ふと、「何をしているんだ。」そんな声が湧き上がった。
ずっと蓋をして気付かない振りをしていた壺の中から、反響して響いてくるような声だった。
それでも、僕はその声を無視する事にした。
僕は、忙しかったのだ。
余計な悩みはもう抱えたくない。
"無理しているんじゃないか" なんていう迷いに向き合う時間すらなかった。
長年付き合っている彼女とも、別れるでもなく、進むでもなくそのままだった。
彼女がいい年になっているのは知っていたし、いつかは結婚するつもりでもいたが、今は具体的に話を進める余裕は無かった。
いつしか彼女も、その事を話題にするのはやめていた。
僕はまるで、現状を維持する為だけに走り続けている、回し車の中のリスのようだった。
カタカタと回し車が回る、その音には耳を傾けずに走り続けた。
ある日、久し振りに仕事が早く終わり、いつもよりも大分早く、夕方に帰れる事になった。
彼女と駅で待ち合わせ、一緒に僕の家に行く事にした。
待ち合わせの時間通りにやってきた彼女は、いつものようににこやかだった。
だけど、僕は一瞬、妙な違和感を覚えた。
それが何なのかは分からない。
久し振りに会うせいなのかも知れない。
いつものように、他愛も無い会話を交わしつつ、並んで歩く。
いつもと変わらないはずなのに、なぜか僕と君の間に薄い膜があるような気がする。
疲れのせいなのだと思った。
交差点で、いつものコンビニに入った。
ここで、僕の違和感は跳ね上がった。
何かがおかしい。
そう言えば、このコンビニは、いつも少しおでんやホットメニューの入り混じった匂いがして、僕はそれが嫌いだった。
なのに、今日はそれがない。
いつも通り、レジの脇にはおでんもあるのに。
僕は、妙な胸騒ぎがして、店の外へ飛び出した。
すると、見慣れたはずの風景が、いきなり僕にはよそよそしく感じられた。
行き交う人々、町の喧騒、変わらないはずの景色に、そこに感じるはずの「生の空気」のような物が感じられない。
ふと気付くと、真後ろに彼女が立っていた。
気配もなく。
僕は、驚き、飛び退った。
彼女は、驚いた風もなく、「あなたの好きなお弁当も買ったわ。帰りましょう。」と微笑んだ。
それは、僕の知っている彼女ではなかった。
外見は同じでも、心を交し合った、あの彼女とは思えなかった。
いや、全くの別人だった。
その時、僕は、ここが僕の世界ではない事を確信した。
. . .
これは、何なんだ。
この世界は、僕の知っている世界ではない。
良く似ているけど、面倒くさくて暑苦しく、それでいて愛しい、あの世界ではない。
そんな想いが込上げてきた。
一体、ここは、どこなんだ?!
その時、あの壺の中からのような声が頭に響いた。
「望んだ世界はここじゃないのか。」
現状を維持する事だけを考えていた。
このまま何も迷わずに毎日を過ごす事だけに目を向けていた。
でも、迷いも悩みもあってこそ、生きているのだと思った。
こんな物は、僕が望んだものではない!
. . .
耳元で大きなクラクションが鳴り、僕は腕を強く引かれ、後ろへ倒れた。
呆然としている僕を、君が怒鳴りつけた。
「ふらっと車道へ出るなんて、何やってるの!轢かれるところだったわよ!」
それは紛れもない、いつもの君だった。
そして、僕は辺りを見回し、いつも通りの僕の世界だと確信した。
煩わしくも、温かい、面倒くさい事だらけの、僕の世界だ。
僕は立ち上がり、君を抱きしめた。
君は、訳が分からずにうろたえ、「人が見てる。」と言った。
僕は構わず、両腕に力を込めた。
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- 2007/07/27(金) 18:47:00|
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僕が車に興味を持ったのは、些細な出来事がきっかけだった。
それも、とても俗っぽい。
僕は当時、飲食店でバイトをしていた。
昼間はコーヒーと軽食を、夜にはアルコールも出すようなちょっと小洒落た店だった。
そこに勤める社員の女性、 ―多分僕にとっては上司に当るのだろうが、一介のバイトにそんな意識は無かった― 、フロアマネージャーにちょっと憧れに似た気持ちを持っていた。
僕はあまり無駄口を叩くタイプじゃなかったし、彼女とプライベートな話をする機会もなかった。
その事を不満に思った事もなかった。
ある日、バイトに向かっている時の事だった。
その日は北風が冷たく、僕はマフラーに顔を埋めるようにして歩いていた。
僕の横を通り過ぎ、店の前で止まった車から、女性が降りた。
車の中に向かって、二、三言言葉を発しにこやかに手を振って歩き出そうとした時に、僕と目が合った。
彼女だった。
一瞬驚いた顔をした後、悪戯っぽい笑みを顔に浮かべ、人差し指を口に当てた。
内緒よ、と。
「うちの会社、車通勤禁止なの。」
僕は、初めて見る彼女の表情に誘われるように、つい軽口を叩いてしまった。
「口止め料は?」
彼女は、小首を傾げ、面白そうに
「何がいい?」と訊いた。
僕は咄嗟に、
「僕とドライブに行きましょう。」と言っていた。
車から降りる彼女の身のこなしに見とれた直後だったからかも知れない。
彼女は、一瞬思わぬことを言われたというような顔をした後、くすくす笑いながら、いいわよ、と答えた。
でも、僕は実は車どころか免許も持っていなかった。
なので、「冗談ですよ、それよりも今度おごってください。」と言い直した。
それも彼女は快諾してくれた。
でも、僕はとても残念だった。
彼女とドライブに行ったら素敵だろうと思った。
さっき、彼女が乗ってきたような大きな車じゃなく、小さな車がいい。
それで海岸線を走る。
潮の香りが鼻腔をくすぐり、風は爽やかで、陽の光はどこまでも優しい。
そして、隣には、彼女がいて、些細な話にくすくす笑っている。
それはとても心地好く、平和な情景に思えた。
その後、僕は免許を取り、思い描いていた小さな車を手に入れた。
もうあれからかなりの年月が流れていたし、僕もあの店でバイトはしていなかった。
そして、その頃には、彼女はもう結婚してしまっていた。
相手は、恐らくあの時に車で送ってきた人なのだろう。
今、僕は、愛車と2人きりのドライブを楽しんでいる。
思っていたように、小さな車で海岸線を走るのは、とても心地好く満ち足りた気分になる。
いつまでも、どこまでも走っていたいような気持ちだ。
そして、本当にたまに、これから出会うであろう、いつか助手席に座る女の子の事を思う。
表情のくるくる変わる、笑顔が素敵な娘ならいいな、と思う。
でも、今はまだしばらく、車と僕とで、ただ走るだけでもいい。
そう思う。
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- 2007/07/20(金) 22:07:23|
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「ビールでも飲む?」
静かに、優しく、君が訊く。
そして、僕は追加のビールをオーダーする。
注文してから、ビールが来るまでの間、僕達の間に沈黙が流れる。
それはとても長く感じられ、僕は静かな湖の底へと沈んでいくような気分になる。
君の目を見つめようとすると、君の瞳が微かに左右に揺れる。
困った表情を浮かべないように努力しているのが分かる。
. . .
数年前、君が僕に訊いた。
「男と女の間に友情ってあるのかな?」
僕は、自分の信念に従い、即答した。
「もちろん、ある。人間的に尊敬出来るかどうかは性別に関係ない。」
君が、少し泣きそうな顔をしたのを覚えている。
そして、僕が内心ひどくうろたえた事も。
その頃、君は、付き合っている彼が浮気をしているんじゃないかと怯えていた。
君の彼は、誤解だと言い、浮気相手ではないかと疑っている女性の事を「彼女は友達なんだ。」と言っていた。
君は、友人だと言われ、それ以上追求できず、かと言って、自分よりも頻繁にその女性と会っている彼の事を容認する事も出来ずにいた。
君は、根本的に、男は女に友情を抱けないものだと思っていたし、そう誰かに言って欲しかったのだ。
彼の浮気を追及する糸口が欲しくて。
僕は、そんな事は知らずに呑気に質問に答えていた。
僕は浅はかにも、そんな君に対して「じゃあ、友達になろう。」と言い放った。
今から思えば、随分傲慢な話だ。
僕達の友情が成り立てば、この男女間の友情に否定的な女性も意見を変えるだろうという、気軽な考えだった。
そもそも僕達は、大学の同じクラスに属していて、出席番号で自動的に決められた実験のパートナーだった。
僕達は 2人で実験を行い、レポートを書いた。
何度目かの実験の後、一緒に食事に行き、雑談をしているうちにそんな話になったのだ。
そうして、僕らは次第に友情を深めていった。
君は、とても機転の利く聡明な女性だったし、鋭い洞察力を持っていた。
それは、男女関係なく尊敬できるもので、僕はすぐに君という友人を持てた事を誇りに思うようになった。
だけど、あろう事か、僕はどんどん異性としての君にも惹かれていった。
女性とは思えないくらいの気の強さ。
自分の考えをとことんまで相手と議論し尽くす論理性。
かと思えば、時折見せる気配り。
僕は、自分の彼女よりも君と話す事に喜びを覚えるようになっていった。
僕は、そうこうしているうちに、つまらない事で彼女と別れた。
些細な喧嘩がきっかけで、会わないでいるうちに気持ちがすれ違い、彼女の方が新しい男を見つけた。
よくある話だ。
問題だったのは、それが僕にはショックではなかった事だった。
そうして、僕は、君を愛しているという自覚をようやく持った。
そして、僕がこんな回り道をしている間に、君と彼の間の問題は解決し、絆は深まっていた。
. . .
君は、とうに僕の気持ちには気付いていたのだと思う。
そして、僕がその事を言い出すことに怯えていたのだろう。
よりによって、「男女間の友情は成り立つ。」と宣言した僕が、自らの言葉を壊そうとしているのだ。
その時の君の困った顔が目に浮かぶ。
僕は、君が好きだ。
とても好きだ。
君を困らせたくなんかない。
だから、この気持ちは、僕だけの秘密だ。
仮に、公然の秘密だったとしても。
決して口には出さない。
そう、決めている。
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- 2007/07/18(水) 10:00:00|
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君に見せたい景色があった。
絶景などではなく、大した景色じゃないのかもしれないけど。
君がどのような顔でそれを眺めるのかも、どのような感想を口にするのかも、全て分かる。
目の前にいるのかのように、鮮明に見る事が、聞く事ができる。
君を永遠に失ってしまった今でも。
どうして、君はここにいないんだろう。
どうして、それでも同じように朝はやってくるのだろう。
どうして、以前と同じように太陽は輝くのだろう。
どうして、僕は一人でこの景色を見ているのだろう。
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- 2007/07/17(火) 23:26:08|
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行きつけのお店のメニューに冷製スープが増えていた。
もう夏なんだね。
僕は、この店の冷たいスープが好きだ。
ちょっと塩がキツめで、味がしまっている。
なのに、今日はあまり美味しく感じない。
去年、君は「美味しいね。」なんてはしゃぎながら、このスープを食べていた。
あれから、もう1年経ってしまったなんて嘘みたいだ。
僕達は、ここの冷たいスープを夏の間に何度も味わった。
君は、ヴィシソワーズがお気に入り。
そして、たまにグリーンピースのスープを頼んでは、そのきれいな緑色に見とれていたっけ。
僕は、いつもパンプキンスープだった。
今年は、君がいない。
遠くの街も、ここと同じように暑いのだろうか。
その街に、美味しいスープを出す店はあるのだろうか。
君は、秋には帰って来る。
昨秋の終わりに君がいなくなってから、お互い忙しくしているうちに、思ったよりもあっけなく季節は過ぎていた。
初めのうちは寂しかった気持ちも、それなりに落ち着いて、自分の事に没頭する日々が続いていた。
でも、このスープを目の前にすると、君のいない夏が、とても空虚なものに感じてくる。
堪らなく君に会いたい。
こんな女々しい自分に、ちょっと苦笑する。
待っていても、あと2ヶ月もすれば君は帰って来る。
分かっている。
でも、今度の休みには、君に会いに行こう。
同じ夏は2度とはやって来ない。
君がいないなんて、僕にとっての今年の夏は、夏では無いも同然になってしまうのだ。
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- 2007/07/15(日) 19:06:20|
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雨上がりのある日、そいつは突然やってきた。
その日、僕は朝からツイてなかった。
悪い夢にうなされて起きると、目覚まし時計は壊れていて、起きるはずの時間はとっくに過ぎていた。
単位が危ない一限の授業にはすでに間に合うはずもなく、気落ちしたままベッドから起き上がると、今度は床に置きっ放しだった借り物の CD を踏んでしまった。
コーヒーを淹れようとすれば、粉が切れている上、サーバーを落として割ってしまった。
飛び散ったサーバーの破片を片付ける為に掃除用具を取りに行く途中では、柱に足の小指をぶつけた。
せめて朝食を食べようと、トーストを焼こうとすれば、パンにはカビが生えているといった具合だ。
まったくもって、こんな日には何も上手くいかない。
僕は何もかもを諦めて、冷蔵庫からビールを取り出し、タバコをふかしながらちびちび飲んだ。
せめて、昨日までのように雨が降っていたなら、雨に閉じ込められのんびり部屋で過ごしている気分を味わえていたのに。
そんな事を思っていた時、唐突にドアのチャイムが鳴った。
滅多に来客がないので、僕がその音を耳にするのはかなり久し振りの事だった。
それは、昨日までの雨の湿り気を含んでいるかのような、重い、絞ったら水が滴りそうな音に聞こえた。
僕は重い腰をあげ、玄関ドアを開けた。
「こんにちは、ワタクシ、こういうものですが。」
そいつは、名刺を差し出しつつ、にこやかに言った。
奇妙なやつだった。
全体的にのっぺりとして、頭がでかく、愛嬌があるのに無表情。
名刺には、全日本雨対策協会、そんな訳の分からない文字が印刷されていた。
僕はにっこり笑って、ドアを閉じようとした。
そいつは、僕の動きを読んでいたかのように、ドアの内側に身体の一部を滑り込ませた。
「お話だけでも聞いてください。」
「いや、今から出掛けるんで、忙しいんですよ。」
そいつは部屋の中を一瞥し、鼻を鳴らした。
いや、鼻を鳴らしたような気がした。
僕の飲みかけのビールに顎をしゃくり、
「いやいや、随分優雅な時間を過ごされているんじゃないですか。」
と言いやがった。
こんな訳のわからない奴に付き合うのは嫌だと思いながらも、どうせ今日は朝からツイてない事の連続だし、それがもう1つくらい増えてもいいかという気分にもなっていた。
多分、僕は投げやりになっていたのだ。
そいつは家に上がり込むと、辺りを見渡し、
「なかなかいい部屋にお住まいで。」とかなんとか言い出した。
「で、どんな御用件で?」
僕は冷静に切り出す。
「ええ、あなた様及び妹様と、当方の間の契約についてなんですが。」
僕はびっくりして、言葉を失った。
その間に、そいつはテーブルの上に、書類を並べ始めた。
「ちょっと待ってくれ。契約も何も、あんたとは初対面だし、第一、イモウト?妹は僕とは一緒に住んでないし、一緒に何かの契約を交わすこともないはずなんだけど。」
「そんな事はありません。もう大分前の事なのでお忘れですか?」
そいつはそう言うと押し黙った。
気まずい空気が流れる。
僕はそいつがテーブルの上に並べた書類の1枚に手を伸ばす。
小さい文字の間に、"契約不履行の際" の文字が見えた。
よく読もうとした時だった。
そいつが低い声で話し出した。
「私は、私なりに頑張ったんですよ。
無理な願いも一生懸命聞き届けて、外に何日も吊るされて。
1つの願いならともかく、妹さんに至っては、マラソン大会の前日にはあろう事か、まったく逆の事を言い始め、私を逆さまにしたんです。
私だって、混乱しますよ。一体どうしたらいいのか、分からなくなります。
おまけに、ダメだったら、首を刎ねるなどと脅されて。
それでも頑張っていたのに、今では存在意義さえ・・・」
どんどん声が小さくなっていき、聞き取れないほどの声で何かをぶつぶつ言い続けるそいつから、目が離せなくなっていた。
僕は身動きの出来ないまま、そいつを見つめ続けた。
やがて、そいつはゆっくりと顔を上げた。
それは確かに見覚えのある ――。
. . .
僕は飛び起きた。
そうだった。
梅雨の合い間の週末、昔持っていたはずの本を探す為に、実家に帰ってきたのだった。
先ほど、本棚の間から、子供の頃に妹と一緒に作ったてるてる坊主を見つけた。
いつの間にか、それを持ったまま寝てしまっていたらしい。
窓の外には、またいつの間にか雨が降り出していた。
僕は、長いこと放っておいたてるてる坊主の埃をぱぱっと手で払い、窓の外に吊るした。
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- 2007/07/14(土) 03:03:59|
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気だるいような、爽やかなような、移りゆく空。
今までの人生で何度見ただろう。
その中の何回が、幸せな気分だったんだろう。
少しだけ見つけた、光るもの、ほのかな温もりを感じるものが、零れ落ちていく。
ちがう。
零れ落ちていくんじゃなくて、見失うんだ。
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- 2007/07/13(金) 04:14:55|
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自分の不安を誤魔化したくて、酷い事を言った。
本当は、君を傷つけたい訳じゃなかった。
不安を遠ざけたくて。
確かめたくて。
君は、僕を必要としているんだろうか?
こんな僕を?
そう思ったら、堪らなく不安になった。
本当なら、君の手を握り、ずっとそばにいて欲しいと言うべきだった。
些細なケンカが、僕の不安を大きくした。
傷つける為だけに言葉を使ってしまった。
君を傷つけたくなんか、なかったのに。
謝りたくても、言葉がもう出てこなくなってしまった。
. . .
永遠かと思われた沈黙のあと、おもむろに君が立ち上がり、僕の横を通り過ぎた。
ああ、この部屋から出て行ってしまうんだ。
そう思った。
止めたいのに、足が動かない。
. . .
しばらくして、君はティーポットとティーカップを持って戻ってきた。
呆然としている僕を無視して、無言のまま紅茶を煎れる。
やがて、ティーカップをセンターテーブルの端に置き、ジェスチャーでソファに座るように指し示す。
僕が座ったのを確認して、深呼吸を1つすると、
「さっきは私も悪かった。でも、あなたも最低だった。
でもね、やっぱり落ち着いて話し合お?とりあえず、それを飲んで。」
と一息で捲くし立てた。
僕は、敵わないな、と思う。
君のこういうところに何度救われてきたか分からない。
本当に、君はすごい。
「・・・笑うところじゃないと思うけどな?」
君は不服そうに言う。
そんなところも、全くもって敵わない。
空気を一瞬にして変えてしまう、こんな事は僕には出来ない。
今度は、僕が、素直に謝る番だ。
こんな事で、君を失う訳には、どうしてもいかない。
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- 2007/07/12(木) 23:39:14|
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彼女が僕の元からいなくなってもう1年になった。
恨んでなどいない。
むしろ、僕のせいで彼女の貴重な何年間かを浪費させたのかと思うと、申し訳なくて苦しくなる。
その一方で、僕は、彼女以外の人を愛する事はきっと出来ないと、確信に近い思いを抱いていた。
それはつまり、僕は一生独りでいなくてはいけないという事だった。
愛すべき人がいない人生、それはとても無味乾燥なものに思えた。
でも、それでもいいと思っていた。
. . .
そんなある日、窓の下の雑草の中に、花を見つけた。
彼女が窓辺で育てていた鉢植えからこぼれた種が芽を出したのだろう。
見た事のある黄色い花だった。
僕は、取り立てて水を与えるでもなく、雑草を抜くでもなく、放っておいた。
僕の心は、花を見たくらいでは、何も感じなくなっていた。
そして、そんな花の事は忘れていた。
. . .
翌年、窓の下が黄色に染まった。
あの一輪の花がこんなに増えたのだろうか。
もしかしたら、僕が気付かないだけで他にも咲いていたのかもしれない。
理由はどうでもいいが、窓の下では多くの花が風に揺れていた。
それは魔法を見ているようだった。
黄色い帯を見ているうちに、硬くなっていた心の一部が剥がれ落ち、みるみると心が剥き出しになっていった。
気付くと僕は声もなく泣いていた。
ただただ寂しかった。
彼女を失った自分の浅はかさが、悲しかった。
そして、もう独りは嫌だと思った。
花を見る喜びを、誰かと分かち合いたいと思った。
ひとしきり泣いてしまうと、心が軽くなった気がした。
知らないうちに心に枷をつけていた事に、改めて気付いた。
この花を見ると、彼女を思い出すけれど、それは悲しい感情ではなく、それどころか心の中に温かいものが広がるのが感じられた。
そして、僕は花を育て始めた。
花は増え、僕の家の庭は花で覆われた。
次第に、僕の家の前で足を止める人が増え始めた。
声を掛けてくれる人も。
. . .
僕は今、多くの人と笑い合い、喜びを共有している。
いつか愛すべき人と出会っても、今なら失わずにやっていけそうな気がしている。
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- 2007/07/11(水) 19:33:17|
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土曜日の昼下がり、いつも僕は君を迎えに行っていた。
ウィークディはお互いに忙しくて会えないから、週末が来るのを、首を長くして待っていた。
本当は朝早くからでも会いたいのに、君が休みの日の朝は起きれないと言うので、会うのは昼を過ぎてからだった。
初めのうちは、待ち合わせをして会っていた。
でも、少しでも長く会っていたくて、僕が君のアパートまで迎えに行く、というパターンがいつの間にか出来上がっていた。
僕は途中の駅にあるファーストフードで 2人分の朝食兼昼食を買い込み、君の住む町へ向かう。
君のアパートに着くと、君はまだ寝惚け眼で、でも心を込めてコーヒーを淹れてくれた。
冬の寒い日も、夏の暑い日も。
どんなに暑い日でも、アイスコーヒーなんて出てこない。
君はアイスコーヒーなんて物の存在を認めないかのように、いつでも淹れ立ての熱いコーヒーを出してくれた。
それでも、君の淹れるコーヒーはいつだって最高だった。
お陰で、僕の土曜日のイメージは深くコーヒーの香りと結びついている。
コーヒーの香りがしてくると土曜日なんじゃないかと錯覚してしまうくらいだ。
君の淹れるコーヒーが飲めなくなった今でも。
. . .
君は、あの頃と同じ寝惚け眼で僕の話を聞いている。
一緒に暮らすようになった今では、朝のコーヒーを淹れるのは、すっかり僕の役目になってしまった。
君が、コーヒーを飲まなければ起きないから。
「僕は、君の淹れたコーヒーで、土曜日を実感したいのに。」
そう呟いてみたら、君は済ました顔でこう答えた。
「あら、私の土曜日のイメージは、あなたが途中の駅のファーストフード店で買ってきてくれるサンドウィッチだったのよ。」
僕は、口では「やれやれ。」と言いながら、ささやかな喜びを感じていた。
ゆっくりとした昼下がり、光は優しく、外では小鳥がさえずり、傍らに君がいる。
他に何を望む?
強いて言えば、君が淹れるあの酸味の強いコーヒくらいだ。
でも、それと引き換えに、穏やかな朝に君の寝顔を眺める時間を手に入れた、そう思えばそれでいい。
僕は、この何もない日常が、ずっと続くことを切に願った。
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- 2007/07/10(火) 03:10:23|
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